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■疾走
生きていれば傷つくことは多々あるけれど、克服できる傷と、克服が困難な傷があります。その傷を自分のなかにしまい込んで、自分を傷つけてしまう人、その傷の代償をほかの人に負わせてしまう衝動に変えてしまう人…。彼らを救う手立ては?彼らが自分で立ち直る手立ては?
今回は『Colorful カラフル』の公開に合わせて、このテーマを考えてみたいと思います。
2010年8月21日全国公開
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Colorful カラフル
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生きる気力を無くす理由として、絶望と孤独がまず上げられます。では、絶望はどこからくるのか?何かに失敗して自信をなくすこともあると思いますが、それは実はきっかけであって、そうなったときに仲間がいない、励ましてくれる人、応援してくれる人、見守ってくれる人の存在がまったく感じられないということが原因なのだと思います。それはつまり孤独感にも繋がってくると思うのですが、「どうせ僕が失敗して不幸になっても、誰も気にしないや」という思いがマイナスに働くと、頑張っても意味がない、生きていても意味がない…という風にマイナスの連鎖が起きてしまうように思います。
さらに、信頼している人、好きな人に裏切られると、ますますその絶望感、孤独感は深くなります。「この人だけは」という人が信じられなくなるのですから、ショックは大きいはずです。「真」が自殺してしまったきっかけも、それが引き金だったようです。
とても難しい問題です。いじめにあっていたり、虐待されたり、関心を持たれずに毎日を過ごしている人の気持ちを理解するのは難しい面もあります。「死ぬほどのことじゃない」かどうかは、本人でないとわからないと思います。理解できない人の方が多いはずですが、死ぬ方が楽という心理に到達してしまうような現状があるのだと思います。
と言ってもやっぱり何があっても、自ら命を絶つべきではないと思います。ではどうやって戦うのか?厳しいようですが、周囲に解決を迫るのは現実的には難しいというか、周囲が気付いて何か手を打ってくれる環境ならそこまで追い込まれていないはずだからです。もちろん周囲の理解や協力は必要ですが、やっぱり1番の解決へのキーマンは自分だと思います。そのことを『Colorful カラフル』は描いているように思います。
どっちにしろ、辛い原因は「他者の目を気にする」「他者の価値観や期待に添う生き方をしようとし、自分も他者にそれを求める」ことから起こるのだと思うのです。「○○はこうしてくれなかった」「○○がこうしてきたから」「○○は何もしてくれなかった」という考え方をしている限り、自分では解決できない領域のことで苦しむことになるのではないでしょうか?また、「自分はいなくなっても誰も気にしない」ということも、じゃあ自分自身はどう思うんだということが置き去りになっています。こういう観点からすべてを見ていたら、辛さが倍増してしまうように思います。
もちろん、いじめや悪意のある無視など他者がきっかけとなって始まる苦悩は他者を気にせずにはいられません。それでも、自分は自分という何かを持っていれば、少しだけでもそれに抵抗する、それをはねのける勇気が出るように思うのですが、どうでしょうか?
自分に辛いことがあるように、他者にも見えない苦悩があるのは当たり前。自分を構ってくれない周囲一人一人見てみても、誰もが自分のことで必死なのかも知れません。自分だって自分のことに必死だし、自分は他者に何かしてあげられたか?という問いかけをしてみれば、少し見え方が変わってくるかも知れません。
これは誰にでも言えることで、くっきりとあなたは黒一色、白一色ですなんて言えないのだということを『Colorful カラフル』は改めて感じさせてくれます。一見綺麗に見える色を持っている人でもダークな色を持っていて表には出ていないだけかも知れないし、ダークな色ばかりに見えても綺麗な色を持っている人もいる。妥協しろということではなくて、それは自分自身をどう見るかということでもあり、他者をどう見るかということでもあり、見る人、見る角度、見るときのシチュエーションでカラフルに見えるのだということだと思います。だから、こうでなきゃいけないという生き方なんてなく、皆それぞれにカラフルに生きているという事実を知りつつ、どうやって生きていくかということを考えるべきなのではないでしょうか。
こんなことを感じる機会って日常生活にそうそうないですが、辛いときこそこういうことに気付くチャンスだと思います。私のことになりますが、今まで乗り越えなければいけない壁はたくさんありました。自分だけが辛いと勘違いしているときもありました。でも、ピンチに立たされたとき、精神的に病んでしまいそうなとき、声をかけてくれる人、救ってくれる人、手伝ってくれる人、何も言わないけど陰で心配してくれている人がいたことに、何度も気付かされました。人は言葉にすべて出さないし、わざわざ連絡をしてくるかどうかも人それぞれです。そのときは気付いていなかったけど、私の知らないところで本当に心配をしてくれていたという話をあとになって聞き、自分はなんて未熟なんだろうと思ったことも何度もあります。
だから、もし辛いときに孤独だと感じて絶望に陥ってしまいそうな人がいたら、どこかで自分を心配してくれる人がいると信じて頑張って欲しいなと思います。そして、そう思うには自分が誰かを同じように思うことから始めないと実感が湧かないと思います。近くにいても遠くにいても、もう他界していても、そう思ってくれる人、自分もそう思える人を見つけることから始めたら、少し元気が出てくるかも知れません。もし、すぐに見つからなくても、自分がそういう人を受け入れる気持ちをもって自分次第だと思って生きていればそういう人に出会えると信じたいし、今孤独な人にもそう信じて今を切り抜けて欲しいと思います。
悩んでいる人、苦しんでいる人の役に立ちたいということは簡単ではありません。もしかしたら全然的はずれな言葉をかけてしまってさらに傷つけてしまうことがあるかも知れません。助けようと思って逆にこちらが傷つくこともあるし、遠ざけられてしまうこともあると思います。私もそういう体験はあります。だから臆病になっている自分もいるし、逆に時間が経てば当時のお互いの真意を理解できる日がくるのではと少し希望を持っているのも事実です。
誰かに直接相談したり、助けを求めるのこと自体、勇気がいる場合もあります。でも、一歩踏み出さない限り辛い日々が続きます。死んでしまったら終わりにできるかも知れないけれど、自ら命を絶つ“弱さ”を、死ぬ覚悟がある“強さ”だということに意識の転換ができれば、何だってできると思います。今死にたいほど悩んでいる方がいたら、なんとかもう一踏ん張りして欲しいと思います。
2010.8.22 TEXT by Myson