強い思想がある人達に囲まれ、閉鎖的に暮らしていると、思考はある程度皆同じように形成されていくでしょう。その方が“安全”だと考える人達もいるかも知れませんが、選択肢がないなかで一つの思考にとどまっている状況と、知恵や知識が備わり選択肢があるなかで自分の意志で持った思想とでは比べものにならないように思います。今回は、激動の人生を歩む主人公たちの物語をもとに、このテーマを考えてみました。
ツイートわたしはマララ
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<生きるために教育が必要> |
義務教育で学校に行くことが当たり前の日本に住んでいると、学ぶ機会の有り難さを実感する人は少ないと思いますが、学びたくても学べない世界や、学びたいという考えすら浮かばないようにされている環境に住む人々が、世界にはまだたくさんいます。マララのお母さんは教育を受けずに育っていて、ある意味、反面教師的な存在でもあるようですが、だからこそマララは教育を受けられないでいる世界中の女の子たちに教育が必要だと思っているようです。 外の世界から知識や情報が遮断されると、比較対象がなくなり、自分にとって何が最善なのかを選ぶ予知もなく、与えられた状況を受け入れて生きることになります。世の中の仕組みや、他の国や人の思想などもわかった上で、生き方を選択できる環境の大切さを、先進国にいる私たちも理解しなければいけないと思います。 |
独裁者と小さな孫
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<裕福でも偏った世界しか知らないことは危険> |
冒頭では、民衆のためではなく、道楽で国を治めているような非道な独裁者に見える老人も、民衆によるクーデターが起き、一転して追われる立場になると、一人で幼い孫を守る優しいおじいちゃんに見えてきます。苦しい生活を余儀なくされていた民衆が、姿を変え身分を偽り逃亡する大統領たちを目の前に、殺意を表すときもしばしばありますが、そういう状況を目の当たりにするうちに、大統領にも変化が起き、出会う人達に親切に対応する姿に、人は環境によって、どちらにもなり得るということを実感します。同時に、悪から善に変わることもできるという希望も持てるのですが、贅沢な暮らししか知らず、自分が置かれている状況の変化が理解できないまま逃亡している幼い孫を見て、狭い世界しか知らないことの危険さを知りました。また本作には、負の連鎖を終わらせるにはどうすべきなのか、大切なメッセージも込められていますので、その辺りにも注目して観てください。 |
今回ご紹介したような映画を観ると、将来のために良い学校に入って…という日本の風潮が、平和を前提に成り立っていることを実感します。当たり前に思っていることは、当たり前ではない。私たちが今目にしている平和もいつ変化するかわかりません。そう言った意味でも、平和な日本に暮らしていても、いろいろな世界を知ることが大事ですね。
2015.12.14 TEXT by Myson