一見腑に落ちない選択でも、視点を変えれば納得できることもあります。今回は、大きな選択をした主人公の物語をご紹介します。
ツイートディストピア パンドラの少女
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<彼女が人間だとするならば> |
ハングリーズと人間の両方の特性を持つ子ども達は、普段は人間の子ども達と変わりがないように見えます。でも、相手が人間だとわかるニオイなどを残したまま彼らに近づくと、たちまちハングリーズとして襲ってきます。そのなかで、知能が高いメラニーは、自制心を持っており、教師の1人が彼女を救い出そうとします。でも、予期せぬ事態が起き、生き残るための選択がいくつも襲ってきます。最終的に究極の選択が突きつけられるのですが、メラニーが自分を人間だと思うのか、周りの大人が彼女を人間だと思うのかによって、その選択が下されることに…。 結局のところ、生存者のなかで、大きな意味で“誰”を救うのかというテーマが描かれているのですが、メラニーを何者と認識するかによって、この選択が正解だったか、正義だったかが大きく変わってきます。この世で全員が同じ視点を持つことは不可能です。それは全員にとっての“正解”“正義”は存在しないという意味なのかも知れません。 |
ビニー/信じる男
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<諦めるのが先か、やってみるのが先か> |
首を骨折し、日常生活に戻すリハビリでさえ辛いと思われるところを、頭と首を金具で固定したまま、筋トレなどを始めるビニー。周囲から反対されるのがわかっていたビニーは、皆に隠れてボクサーとしての復帰を目標としたリハビリを開始します。やがて真相を知ったコーチが彼を助け、秘密のトレーニングは続けられるのですが、あまりにも無謀。でも、ビニーは、「諦めるのが簡単過ぎるのが怖い」と、努力を続けます。 復帰できると信じて努力するほうが難しいのか、すべてを諦めてから後悔してやり直すほうが難しいのか、彼は今できる努力をするほうが思いを実現できると考えたのでしょう。周囲がいくら難しいと思っても、信じる心を持つ者にとっては、難しいという次元を越えた選択ができるのでしょうね。 |
この世の多くの決め事は多数決で決まります。でも、いつも多数決が正しいとは限りません。どちらが正しいかどうかは人それぞれの視点によって違うはず。それでも、お互いにそれぞれの視点で物事を見ようとすれば、皆が臨む選択に近づく事ができるのかも知れないなと思います。
2017.7.10 TEXT by Myson